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足跡を一つ二つ・・・歩いて行くと残ります・・・
目に止めた景色・古道散歩・昔ばなし・草木染め・などつれづれに綴ります.
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烏子稲荷神社
高崎帰りにぶらりと余暇のドライブ、浜川の御布呂(おふろ)が池に寄り
ました。
低地で井野川が蛇行してます。榛名山の湧水も豊富のようです。
西方に見える浅間山の方向に、小道を走ります。
御布呂が池は群馬・ふぉと雑記帳さんのブログに詳しく。

DSC03975b.jpg

周囲の豊かな田園を潤す早瀬川に架かる東橋のたもとに、こじんまりし
た浜川庚申公園の名前が刻まれている。
大きな庚申搭が気になり近所の方が来たのでお聞きすると、昔は向かい
の長学寺にあったという。万延元年(1860)。

DSC03993b.jpg

長学寺境内には彫の綺麗な如意輪観音?
大きな阿形の閻魔様がガラス越しに見えましたが、写真が撮れませんでした。

DSC03999b.jpg

古墳上の烏子(すないご)稲荷神社の北側は義経道路と教えていただきました。
(前方に浜川運動公園・御布呂が池方面を望む)
義経主従はこの道を通り、奥州・藤原氏まで下ったのか?

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[クリックで拡大]

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古墳の名前は、上小塙稲荷山古墳。直径50m余の円墳で6世紀前半の
築造という。

烏子稲荷神社


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元祖 夜泣き地蔵
小日向から姥堂橋を渡り、右に細い道を入ると、下増田の姥堂(うばどう)
という所です。

増田川は、田んぼの先の緑の崖下を流れている。

田があるのは河岸段丘上で、昔は川が運動広場方面にまっすぐ流れて
いたそうです。

ここから増田川を渡ったのでしょうか。

DSC06382b.jpg

増田川を背にして、古道を見ると、右が義人籐左衛門の墓。

その上あたりに姥堂があり、堂守がいたのでしょうか。

DSC06384b.jpg

古道をさらに上がると、左手に石塔が? いいえお地蔵さまです。

DSC06386b.jpg

首のないお地蔵さまが寂しそうに立っています。

これは、夜泣き地蔵というそうです。

五料の夜泣き地蔵尊(5/16)より古いそうです。
これは元祖 夜泣き地蔵?

DSC06381b.jpg

姥堂河原で潮籐左衛門が処刑された事への庶民のささやかな抵抗かも
知れません。

五料の夜泣地蔵の所に、お地蔵さまの頭部が置いてありましたが、も
しかしたらこの地蔵さまのでは?


安中草三郎
東光院

開祖 慈覚大師円仁
寺号 十輪山東光院妙幢寺
本尊 阿弥陀如来
天明4(1784)年、堂宇を焼失したが、同7年41世豪海和尚により再建。

狭い間口の町割り風な門前を、寺門に向かう。

DSC05154b.jpg

完成したばかりの、ヒストリートを示す案内板。

安中草三郎の「悲恋物語」とは? 入口の案内文によると・・・。

DSC05164b.jpg

講談 安中草三郎

落語家「円朝」が実地調査の上に、創作を加えた「後開榛名の梅が香」(おく
れざきはるなのうめがか)によるものです。

1.安中草三郎とは
  
  信州出身、茨城県土浦で剣術修行、師範の「殺し」の罪をかぶり受牢、し
  かし牢を破り上州安中で饅頭商として身を隠す。

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2.安中での出来事

  草三郎が信州にいると聞いて、妻の「歌」は信州に向かう途中の上州安中
  で、饅頭屋「丸太屋」から饅頭を仕入れて行商をしている草三郎と出会い
  生活を始める。
  
  草三郎が美男子であったことから、安中藩の家老である尾崎直右衛門の
  娘「おきわ」が草三郎に恋慕し、尾崎直右衛門は草三郎が妻「歌」を離
  縁し、娘「おきわ」と夫婦になる話をするが、自分には愛する妻「歌」
  がいるとしてこの話を断る。しかし「おきわ」の恋慕は止まらない。

  熊野権現の祭礼の日、お参りに来た「歌」が「おきわ」の兄「直之進」
  の 紋服に泥をつけてしまう。  
  
  これに乗じて「おきわ」の父、直右衛門は草三郎に対し、わびとして
  「歌」の首を切れと言う。草三郎は家に帰りこの旨を「歌」に言うと「歌」
  は涙を流して自分の首を切ってくれと言う。
  
  草三郎は「歌」の首を切り家老尾崎に持参する。尾崎は本当に「歌」
  の首を持参した草三郎に大いに驚き「おきわ」も大いに懺悔する。
  
  草三郎は「おきわ」に懺悔の気があるなら出家して「歌」の霊を弔ってほ
  しいと話す。これにより「おきわ」は髪を下ろし尼僧となり名を「照念尼」
  と改め、下の尻に観音堂を建てここを住まいとする。

  歌の遺骸は東光院に埋葬される。

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メダカが泳ぐ。2世も同居。

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3.その後、草三郎は江戸へと逃亡生活を続ける。途中で母親とあうことも、
  出来たが、江戸吉原で終に捕縛され、処刑される。

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4.草三郎は実在したか
  
  東光院には「歌」の小さな墓が有ります。

  東光院の東の下の尻地区には「観音堂」がありますが、この観音堂は、草
  三郎に恋慕し、悲恋に終わった安中藩家老の娘「おきわ」(後の照念尼)
  が出家し、この観音堂を建立してここに住んだと、言われているものです。

  観音堂があることから、家老尾崎の娘「おきわ」にまつわる恋愛事件とも
  いうべきものがあったと推測できます。

  その相手が草三郎か否かは不明ですが・・・・。

DSC05196b.jpg
 
  又、「おきわ」の兄、直之進の着物を汚した舞台となっている熊野権現は
  東光院の西隣にある熊野神社のことだと思われます。
  この熊野神社は安中市の主神社です。
  
  また、旧安中城の武家屋敷地区内には尾崎家が残っています。
  また、「丸太屋」という菓子店も現在あります。

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  円朝の創作によるところが大きいものの「観音堂」があり、小さいながら
  も「歌」の墓があることを前提に推測すると(いかに講談が人気があった
  とはいえ)貧乏寺が実在しない「歌」の墓を保持するとは考えにくく、「お
  きわ」や「歌」を当事者とする何らかの恋愛絡みの事件が実在したと考え
  られます。

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草三郎は創作だが、実在の人物や事物を織り交ぜ悲恋物語を語ったようです。
ベストセラー作家と言えるでしょう。

草三之碑(8/9)へ。

安中草三郎に詳しいのは、群馬・ふぉと雑記帳さんのブログ。


東光院

  安中市安中3-22-36
  Tel:027-381-0219





正龍寺 観音堂 (下の尻公会堂隣り)
 
  安中市安中4丁目9





山吹伝説
山吹の黄色は、新緑と共にあると存在感を際立たせてくれます。

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立夏と共に、にわか雨の季節到来。この時期知らない人はいない和歌。

七重八重 花は咲けども山吹の 
         実の一つだに なきぞ悲しき    兼明親王

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この和歌を有名にしたのは、康正2年(1456)から長禄元年(1457)にかけて
河越城(川越市)・江戸城を築城した太田道灌。
川越の文化を江戸に持ち込んだとか。逆とばかり、無知でした。

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道灌が父を訪ね越生に来たとき、突然のにわか雨に遭い蓑を借りようと
近くの農家に立ち寄った。娘が出てきて山吹の花を差し出した。

道灌は理解できず後に家臣から、貧しさ故、蓑(実の)一つさえなく用意できません
と古歌を引用して返答したものと説明を受けた。
道灌は無知を恥、以後歌道に励んだとのこと。

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久遠の像(写真の像と同じ?)が新宿中央公園にあるとのこと。
今度行って見たい。
豊島区高田の神田川に架かる面影橋近くに、山吹之里の碑があり、1Km東には
山吹町も。

後に、道灌はその少女紅皿(べにざら)を江戸城に呼んで、和歌の友としたという。
道灌の亡き後、紅皿は庵を建て尼となり菩提を弔った。
その地大聖院(新宿区)に葬られたという。

それにしても、芸術作品がハウスの中とは?
裏の畑にも芸術作品が。4月25日「チョコの散歩道」

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石によりそうツツジ。

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