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足跡を一つ二つ・・・歩いて行くと残ります・・・
目に止めた景色・古道散歩・昔ばなし・草木染め・などつれづれに綴ります.
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板鼻さんぽ③
長傳(伝)寺

八幡山龍雲院長傳寺 曹洞宗 
開  山 長源寺9世、為景清春和尚

天文年間中期に下板鼻(現在の高崎市八幡町)八幡宮境内に長傳庵として
創立。
戦国時代、豊臣軍小田原進攻の際兵火のため八幡宮と共に焼失。
 
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慶長9年中山道改修令に伴い、時の領主里見讃岐守忠重の援助により現在地
に移転再建。

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本堂の欄間には、銘の残る石原常八、金子文五郎は日光東照宮の造営に
かかわった匠の流れを汲む人達であろうと推測されています。

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境内には原(松本)思斎(学者)、松本左右助(和算家)、松本凌波(画家)
の墓があります。

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やはたみちの道しるべ

文政13年(1830) 角柱形 変体仮名 高さ90㎝幅24㎝
くさず いかほ はるな 河原湯 かね古 澤たり 志婦川
       行徳屋□右ヱ門 角菱屋定次郎 白木屋政吉

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板鼻下町の双体道祖神
寛政4年(1792) 祝言形 高さ116㎝幅100㎝

台座は道しるべを兼ねる。
當駅より京へ百七里三丁 江戸へ二十一里半丁 日光へ三十七里
善光寺へ三十七里 榛名山へ五里 妙義山は四里半 加州金沢へ九十二里半

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板鼻東方面から天神山を望む。左土手旧国道18号。

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板鼻陸橋下の双体道祖神と道しるべ

双体道祖神 安政5年(1858) 祝言形 高さ126㎝幅98㎝
道しるべ  宝永9年(1708) 名号塔 高さ 70㎝幅57㎝
      南無阿弥陀仏 右やわたみち 左はるなみち

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称名寺

丘岳山正勧院称名寺 天台宗 
開 山  天徳元年 慈慧大師良源(伝) 
中興開山 永享年間 明尊法印
開 基  徳定(伝)

中興以前の本寺は八幡宮の別当寺であり、天台修験道場的存在だったと
言われている。

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市指定文化財の梵鐘は、境内寺院泉徳寺にあったものですが、廃寺により
当寺に帰属したもの。
同じく境内寺院の東福院跡の山崎稲荷は、当寺管理。

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逆さ楓の伝説
佐野源左衛門常世の馬の鞭代わりのもみじの枝を逆さに刺したところ、
立派なもみじの大木になったという伝説。

長傳寺

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板鼻さんぽ②
板鼻堰

雪が残る道端の水路には、水晶のような氷が水の流れに踊っていました。

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かつて養鯉池だった名残でしょう、取水口から地面の下へ水が流れて行きます。
流水を使う「三角型流水養鯉法」で狭い池で多量の鯉を飼育することが出来ました。
今は昔の様子を想像するのみです。

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この先で旧中山道と接しています。

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金井忠兵衛旅日記」のスタートはここからだったのでしょうか。
群馬・ふぉと雑記帳さんのブログに詳しく。

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中山道に入らずに、このまま板鼻堰さんぽを続けましょう。

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板鼻堰は、板鼻・八幡・剣崎・藤塚・上豊岡・中豊岡・下豊岡地区を潤し、
烏川に落水しています。

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大乗院下の巨大庚申塔

寛政9年(1797) 青面塔(2猿) 高さ212㎝幅170㎝ (大乗院は無住)
石工信州福嶋住 三澤染右衛門吉徳

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八坂神社(ちびっこ広場)の双体道祖神

寛政9年(1797)器物奉持形 高さ120㎝幅85㎝ 祝物(とっくり・椀)を手に。

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板鼻堰

板鼻さんぽ①
板鼻公民館に9時半集合、案内は学習の森藤巻さん。

ここは板鼻宿の本陣跡。まずは聞名寺へ出発。

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板鼻の由来
藺草(いぐさ)の田んぼで藺田(いた)、鼻は突き出た地形をあらわす、。
先(崎)と同一の意味。

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水の街・板鼻の風景は「板鼻堰」なしには語れません。西から東へ流れます。

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5分程で聞名寺着。

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十二光筥(じゅうにこうばこ)「聞名寺の笈(おい)」昭和37年 県指定重要文化財

鎌倉時代の末期のもの。
1280年、一遍が遊行の途次聞名寺に置いたと伝えられる5品の1つ。
阿弥陀仏の12の異名にちなんで12個で1セットであり、その第7の箱が
残った。全面の上段に「七」と読める。

高さ39㎝、幅39.5㎝、奥行き27㎝。
上、下、台部の3段に分かれ、麻布を張り、黒漆が塗ってある。
経机に箱を重ねたような形で、時宗独特の法具である。
全国に同時代の品が3個しかない物の一つである。
 
僧尼の集団の持ち物は、椀・箸・麻衣・手拭い、数珠など「十二道具」
だけで、それらを十二光筥に入れて持ち運んだ。
また、法要、宿泊の時にあ十二筥を並べて僧尼を隔てる結界にした。
 
平成2年度県費補助事業として保存修理した。
特製ガラスケースないは、湿度70%が常時保たれている。
蓋の3色は「二河白道」の教えを表している。  (説明文より)

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本堂内に一遍上人の笈(おい)(十二光箱)や荒木寅三郎の書もありました。

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時宗の宗祖一遍上人は、街道沿いに遊行(布教)の旅を続け、板鼻に聞名
寺を開いたと言われています。
時宗は本来は寺を持たず、道場と呼ばれる場所で布教していました。
道場川はかつて道場があった名残でしょう。
江戸時代に中山道が通り板鼻宿が設置されると信者の便宜と布教のために
現在の聞名寺の場所に移ったのでしょう。

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取勝神社跡を通り、南窓寺へ。

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和算家、小野栄重の墓があります。宝暦13年~天保3年(1763~1831)
中野谷村に生まれた栄重は「上毛の数学栄重を得て始めて大なり」と評
された。

DSC07286b_20140329220850153.jpg クリックして拡大

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板鼻城跡

板鼻城を最初に築いたのは誰か、良くわかりません。
箕輪城の支城として、板鼻城主依田光慶がいました。

次に武田信玄により「螺郭(らかく)式」と呼ばれる築城方式により、板鼻
城(鷹巣城)が築かれました。
現在でも甲州流の堀や曲輪(くるわ)が比較的良く残っているそうです。
下の写真は螺郭の良く解る遺構のようです。

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板鼻城の西を回り再び板鼻堰に降りてきました。

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聞名寺

碓氷峠下り③
中山道・碓氷峠下り③ (11/3日)

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入道くぼ
山中茶屋を出ると左手の高所に、「線刻の馬頭観世音」がある。
ここから「まごめ坂」で、赤土なので滑りやすい。

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陣場が原

巡幸道路と中山道の別れる場所で、明治8年群馬県最初の「見回り方
屯所」があった。これが交番のはじまりです。

巡幸道路は碓氷第三橋梁の下に通じていたが、現在は手前の碓氷川を渡
る橋がなく、途中も沢で崩されていて危険とのことです。

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座頭転がし(釜場かんば)

座頭ころがしの手前から見下ろすと、碓氷第三橋梁が見える場所がある。
そこから座頭転がしを通らないで降りていく道が慶長年間(1596~1615)
の中山道だと言われている。

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足がとんとんと自然に前に。

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慶長年間の中山道は右の尾根を通り、旧一里塚跡の先で合流する。
慶長年間以前の東山道は、座頭転がしを通らなかった。

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北向馬頭観世音
 
 観音菩薩 文化十五年(1818)4月吉日
 信州宝光寺 施主 内山庄左衛門 内田庄助
 坂本世話人 三沢屋清助

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岩棚、山賊が隠れていたとか。

さらに先に、南向馬頭観世音が立っている。
寛政3年(1791)銘、北向観世音より27年前のもの。

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碓氷坂の関所跡

刎石山のなだらかな道を数百m進むと右手に東屋がある。

平安時代の昌泰2年(899)、碓氷の坂に関所を設けたといわれる場所と
思われる。

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東屋を過ぎると刎石茶屋(四軒茶屋)で、その下にある弘法の井戸の
水を使っていた。
旧中山道は弘法の井戸へ曲がらず、まっすぐ尾根の南端を通っている。

覗き

風穴を過ぎると願望が開け、坂本宿が一望できる。
    坂本は 袂(たもと)の下や 夕ひばり  一茶 (年代不詳)
どこで詠んだ句でしょうか。

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山梨の木

坂本宿を眺めていると、背中にあたるのが山梨の木。
例年小さい実が落ちていて意外とおいしいが、今年はならないという。

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上り地蔵・下り地蔵

覗きの先50m程のところで、右下へ戻るように旧中山道に入り100m程
行くと、地蔵菩薩が刻まれているものが2つある。
右が上り地蔵、低い位置にあるのが下り地蔵という。
建立年月不明だが制作は室町時代以前といわれている。
又ここを堂ヶ峰という。
旧中山道の道筋だが100m程先で崩れていて危険とのこと。

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刎石坂のことを、十返舎一九が書いた。

 たび人の 身を粉にはたく なんじょみち 石のうすいの 峠なりとて

碓氷峠下り②
中山道・碓氷峠下り② (11/3日)    

碓氷川水源地、碓氷峠下りはいつもここから。

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人馬施工所跡

笹沢を渡り振り返った辺り。
文政11年、江戸呉服の与兵衛が安中藩から間口17間、奥行20間を
借りて人馬が休む家を作った。

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化粧水跡

峠町へ登る旅人が、この水で姿、形を直した水場という。
峠の賑わいと熊野神社参拝に姿を正したか?

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陣場が原 (案内板)

太平記に新田方と足利方の「うすい峠の合戦」が記され、戦国時代、
武田方と上杉方の「うすい峠合戦記」がある。

笹沢から子持山(標高1110m)の間は萱野原で、ここが古戦場といわれる。
子持山の麓で、思婦石のところから別れた巡幸道路と合流する。

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一つ家跡

ここには老婆がいて、旅人を苦しめたという。(案内板より)

怖い話には老婆が多いという会話が耳に。具体的な話はないが。

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山中坂を降りて山中茶屋で昼食・休憩。
 続きは、碓氷峠下り③へ
碓氷峠下り①
中山道・碓氷峠下り①

昨年は、中山道(碓氷峠)を往く-1-、         
-2-、 -3-、 -4-、 -5-、 -6-、 補1、 補2、 今年補3

軽井沢から碓氷峠へ巡幸道路をバスで。
バスを降りて見晴台方向へ曲がる地点から、右のフェンスを見下ろすと
「旧中山道」の峠道。
ここを幾多の人々が往来したのでしょうか?足音が聞こえて来そうです。

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歌が2首

旅人の 身を粉に砕く 難所道 石のうすいの 峠なりとて 十返舎一九

苦しくも 峠を越せば 花の里 みんな揃って 身は軽井沢

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昨年より日差しを感じるのは葉が落ちてしまったからか?

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左手に「詩聖タゴール記念像」、生誕120年を記念して建立された。 
タゴール(1861~1941)カルカッタ生まれ。
背後の壁には彼の言葉「人類不戦」の文字が記されている。

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DSC05916b.jpgクリックして拡大。

群馬・長野の県境。

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左(西)から右(東)へ。

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浅間山もクッキリ。

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熊野神社へ参拝。
創建者は日本武尊(やまとたけるのみこと)と言われる。
景行天皇40年(110)東国を平定し、武蔵・上野を経て碓氷峠に至る。
鎌倉時代の正応5年(1292)に、「松井田一結衆」が寄進した古鐘も拝見。

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安中藩主、板倉勝明公献上の釣鐘に燈明が灯っていた。
月日の隔たりが一気に縮まる思いです。

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多層塔
南北朝時代の文和3年(1354)に建てられた。
解説板では「多重塔」とあり文は以下。
   奉施入
   当社権現石塔一基 右造立志起者
   為現当二世乃至 法界平等利益也
       文和三年甲午卯月十八日
   妙弥法性敬白
この多重塔は、ここ碓氷峠で南北朝時代に起こった「武蔵野の戦い」で
亡くなった人の「二世安楽:この世とあの世の両方で幸せ」を願って建
てられた。
元は七重で200年程前の浅間山大噴火の影響で倒れた後、一重分が不明
という。

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 夏木立 花は薄井の 峠かな    伊達正宗   

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分水嶺、黄色も色落ちしているが、重要性はあまりない?

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碓氷峠見晴台(標高約1200m)  

 続きは、碓氷峠下り②へ
みくにふみの碑
中山道碓氷峠下り(11/14)再訪記(2)

みくにふみの碑

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みくにふみの碑

四四八四四 七二八億十百 三九二二三 四九十 四万万四 二三四万六一十

よしやよし なにはおくとも みくにふみ よくぞ よままし ふみよまむひと

よしやよし 何は置くとも み国書(ふみ) よくぞ読ままし 書読まむ人

峠の社家に伝えられていたものを,滅失を恐れて昭和30年熊野神社が建てたもの。
(説明板より)

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史跡 赤門屋敷跡

江戸幕府は、諸大名を江戸に参勤させた。
熊野神社前の通りに、加賀藩前田家の御守殿門を倣なぞって造られた、朱塗り
の門があった。
ここに到着した諸大名は、熊野神社に道中安全祈願詣でを済ませて赤門屋敷で
休息し、碓氷峠に無事着いた事を知らせる早飛脚を、国元または江戸屋敷へと
走らせたという。

文久元年(1861)、仁考天皇内親王和宮様降下の折にも、この赤門に休息され
たという。

この屋敷は、熊野神社代々の社家曽根氏の屋敷だった。

(赤門の由来)
現在、東京本郷の東大の赤門が現存している。
この門は、文政10年(1827)加賀藩主前田斉泰(なりやす)に嫁いだ、11
代将軍徳川家斉の息女溶姫(ようひめ)の為に建てられた、朱塗りの御守殿門
であり、重要文化財に指定されている。

赤門稲荷社
創立年代不詳、赤門屋敷の稲荷社。

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宗良親王歌碑

  君がため 世の為何か おしからむ すてて甲斐ある 命なかりせば

宗良親王は、後醍醐天皇の第4王子で、応長元年(1311)~元中2年(1385)。
信濃宮、大草宮、幸坂宮ともよばれた。
正平6年(1351)、新田義興(義貞の二男)とともに鎌倉を攻め落とすが、すぐ
に奪還されてしまい、大河原城に戻りました。

この碑は香坂氏の子孫が遠祖の例を慰めるために建立したもの。

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熊野皇大神社 御神木 しなの木

樹齢800余年といい伝えられている。

信濃には、この木が多く一説には、「信濃は科野なり」ともいわれる。
シナノキは、日本特産の山地にはえる落葉高木で、樹皮は繊維が強いので、樹
皮は繊維が強いので、布・なわなどの材料に用いられる。

シナは、結ぶ・しばる・くくる・という意味のアイヌ語からきたものである。

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紅葉も峠を下り、麓へと移って行く。

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玉屋ドライブイン

当店は刎石山四軒茶屋より、明治26年3月に横川・軽井沢間に鉄道が開通して、
熊ノ平駅で力もちの駅売りをしていた。

昭和38年にアプト式鉄道廃止、熊ノ平駅の廃止により、坂本の地に移った。

力餅などを販売している。

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1200年も昔、碓氷の美が原に碓氷貞光という武将がおりました。
四天王の一人に数えられた貞光は、後に源頼光と名乗り、非常に力持ちで、
学問にもすぐれていた。
現在も、貞光の力だめしの石という大岩が残っております。
      (写真の「力もち」の包紙より)

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難所の峠越えには、ありがたい力もち、おいしいです。

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芭蕉句碑
坂本宿上木戸(西木戸)と坂本八幡宮の参道入り口の間にある。
この句碑は、寛政2年(1790)に刎石茶屋の下の刎石坂に建てられたが、明治
17年に国道18号線ができて中山道が廃道になったので、現在地に移転。

ひとつ脱て うしろにおひぬ 衣かへ   芭蕉翁

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八幡八幡宮
15日は七五三、午後の帰り道にお参りしました。

国道18号線から参道があり、大鳥居が赤く目立ちます。

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鳥居から望む榛名山との関係もうかがえます。

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角の商店の脇からの道が、鎌倉街道?

(追記)八幡宮参道の御神鐙
    その昔、源義家が奥州征伐の折、八幡宮に祈願の燈明を上げよう
    としたが、燭台が見当たらず馬の鐙(あぶみ)を使用した事から御
    神燈の「燈」の字が「鐙」となっている。 
    パンフレット 「八幡めぐり」(八幡地区地域づくり活動協議会)より

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灯篭と石造物の語る物語は?

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大門をくぐると階段。

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門の東の坂道

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提灯と鬼瓦が鎮座。

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鳥居の額には、八幡大御神とある。

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上野国一社 八幡宮(やわたのはちまんさま)(パネルより)

御由緒概要 

天徳元年(957)、京都石清水八幡宮を勧請す。

当社は古来一国一社の八幡宮として広く尊崇され、永承年間源頼義・義家奥州
征伐のさい戦勝を祈願し社殿を改修、頼朝また社殿を改修し神田百町を寄進す。

明治維新まで別当神徳寺ほか社僧・社家あわせて24家による神仏混淆の神事
を執行す。
維新後神仏分離となり、郷社に列せられ、大戦後は宗教法人の神社となり今日
に至っている。

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八幡八幡宮の胴丸(高崎市指定重要文化財)

「胴丸」は、胴をひとまわりさせて前後を重ね合わせて着用したもので、歩兵
用の簡易な鎧として形成された。
鎌倉時代以前は主に歩兵が着用したが、鎌倉末期から兜と袖を加えて武将の間
でも広く利用されるようになった。
八幡八幡宮に所蔵されている二領の胴丸は、ともに南北朝時代あるいは室町時
代初期の頃のものと推定されている。

これらの所蔵の経緯の資料がないため詳らかでないが、八幡神は清和源氏が氏
神として崇めたことにより、武人の守護神として広く信仰されていたことから、
この地方の豪族によって奉納されたものとおもわれる。

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本殿 

天地権現造り、宝暦7年(1757)の建立。天満宮は旧本地堂。
青銅製の燈籠1対は総高5.01mで慶応3年(1867)に奉納されました。
八幡八幡宮の大修復事業完遂記念物です。
大願主は高崎出身の糸繭商で横浜で活躍した野沢屋惣兵衛。
燈籠には高崎、横浜の糸繭商人や養蚕関係者など寄付者の名が刻まれています。

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20数年前を思い出す。平日の夕方のせいか七五三のお参りの方はいないようです。

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八幡八幡宮の算額 (群馬県指定重要文化財)

算額は、主に江戸時代和算家が自分の考えた数学の問題と答えなどを書いて寺
社に奉納したもの。

和算は江戸時代に発達した日本独自のの数学で関考和がその先駆けとなった。
上野国への普及は江戸時代中期以降で、優れた和算家を排出した。

ここ八幡宮には、三面の算額がある。

 ①小野良佐栄重と門人奉納の算額(群馬県に現存する約70面の算額中最古の
  もの・文化7年(1810)奉納) 
 
 ②巖井右内重遠と門人奉納の算額(天保5年(1834)奉納)

 ③中曽根真吾宗邡(むねよし)と門人奉納の算額(安政7年(1860)奉納)

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梵鐘も御堂も立派。

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正面は御神楽殿

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八幡宮大大御神楽 (パネルより)

当八幡宮の御神楽は、現社殿の造営(江戸中期の宝暦7年(1757))に当たり、
それまで中断していたものを、京都神祇管領(じんぎかんれい)に出願し、宝
暦4年(1754)に伝授されて復興したものです。

県下でも有数の御神楽です。

御神楽執行日
1月第二月曜日・4月4日・4月5日・11月3日・12月31日

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上野国一社 八幡宮(やわたのはちまんさま)
 高崎市八幡町655


碓氷貞光
中山道碓氷峠下り(11/3)で、見られなかったポイントを再訪(11/14)(1)

矢ヶ崎川に掛かる二手橋から碓氷峠道に入ります。
舗装道路は巡幸道路で、中山道は300m程先で右に分かれ、沢沿いに熊野神社
まで続いている。

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旧国道18号線の県境付近から分岐して、ここに合流する地点。

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峠を登りつめる手前左(上の標識の向かい側)に、石祠があります。

碓氷貞光霊社

平安時代に平安京(京都)で源頼光に仕え、その四天王の一人といわれた碓氷
貞光をまつる石宮です。

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「上野志」によれば、権現(今の熊野神社)の脇に碓氷貞光の屋敷跡があったと
いわれている。
貞光の父は靱負充橘貞兼という北面の武士であったが、讒言により勅勘をこうむ
り碓氷峠に住んでいました。
母は貞光を生んで亡くなり父貞兼も貞光が7歳の時に亡くなりました。

「前太平記」に、「爰に信濃国碓氷峠に父子あり。ー中略ー(貞光が)10歳計
より山野に出で、鹿猿を追廻し、諸鳥を射落し、手にも及ばぬ大石を転ばし、或
いは牧の馬に縄手綱掛けて、高山広野を駆巡り、己と切磋琢磨して、其の身を徴
し、昼夜武芸に励みける。-中略ー
14歳の時自ら元服して、名字は何と名乗るべきかと案じけるが、いやいや知ら
ぬ氏尋ねんも無益なり。
父祖より当初に住みなれぬればとて即ち碓氷郡荒太郎貞道と名乗りけり。-後略ー」

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後に、貞光が生まれ故郷の碓氷峠に帰ってきたが大蛇が碓氷峠を往来する旅人
を苦しめたので、峠の十一面観世音の助けを受けて、貞光が大蛇を退治したと
いいます。

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近くに古い石段がある。上るとさらに上まで続きます。寺院か?屋敷跡か?

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貞兼霊社

碓氷貞光の父を祀る霊社に行って見ます。

碓氷峠熊野神社の前を下ると、500mほどで中山道(右)と巡幸道路(左)
の分岐になる。左に思婦石がある。

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思婦石から左(巡幸道路・霧積方面)に10m程行くと、右に案内があるので、
右に下る。

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北へカーブする道の先に、霊社が見える。

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貞兼霊社

境内に「一つ家の歌碑」が建てられている。これは再建されたもの。

元の碑は中山道筋に建てられていたが、天明3年(1783)に発生した浅間山の
大噴火で埋没し、その後の洪水で流されて行方不明になりました。
このため江戸時代の終わり頃に、熊野神社の社人が滅失しないように再建した
ものです。

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歌は漢数字で書かれていて、弁慶の作と伝えられている。

八万三千八 三六九 三三四七 一八二 四五十 三二四六 百四 億四六

やまみちは 寒く さみしな 一つ家に 夜ごと 身にしむ 百夜 おく霜

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この霊社に通じる道も元は中山道の道筋でしたが、天明3年の浅間焼けのため
霊社より先は崩れています。

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霧積方面へ行く道は、貞兼霊社の上方にあり、少し広い尾根の平地の先に曽根
家の墓地がある。

パンフレットにある「定光城跡」・「はなの木山」はいずこに?、貞光のことか?

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金剛寺の開基は、貞光といわれる。(5/26)(5/28)(5/29)(6/23

中山道(碓氷峠下り)を往く(終)-6-
堀切

南向馬頭観世音を過ぎると、左右が深い谷に出る。

天正10年(1590)、豊臣秀吉の小田原北条氏攻めの際、前田利家・上杉勝・
真田昌幸らの北国勢は信濃国から上野国に侵攻した。

北条氏の家臣で松井田城を守る大道寺駿河守政繁は、北国勢を防ぐために、こ
の堀を切ったという。実際には迂回され、役立たなかったという。

現地は尾根の間を土橋状につないでいる、後日歩きやすくしたのか?

堀切を過ぎて急な坂を登りきると、刎石山山頂のなだらかな道「妹がや」となる。

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碓氷関

刎石山のなだらかな道右手にあずまやが見える。
このあたりに、平安時代の昌泰2年(899)に、碓氷関(5/29)が置かれたと
いわれている。

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刎石茶屋(四軒茶屋)

あずまやを過ぎた左手に石垣が見える。
中屋・玉屋・小池屋・山戸屋の4軒の茶屋があった。
小池屋が茶屋本陣で上段の間があった。

水は坂を下ったところにある、弘法の井戸の水を利用した。

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弘法の井戸

その昔、弘法大師が錫杖で地面をついたところ、水が湧き出たといわれている。

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風穴

中山道の両側に岩肌が露出して谷間状になったところに出る。
ここに刎石火山の風穴がいくつか見える。
穴に手をかざすと、わずかに暖かい微風がふきだしています。冬は暖房替わり?

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風穴やこの先の柱状節理は、この尾根が火山によって形成された証拠です。

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文字の馬頭観世音がある。

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覗き

風穴を過ぎると平坦なところに出る。
尾根の南端で、南側は眺望が開けていて、坂本宿が見える。
ここに「山梨」の木があり、毎年4月末頃開花するという。

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上り地蔵・下り地蔵

覗きを過ぎて50mほど北に行くと、道が二股に分かれる。
中山道は北へ急な坂を下りるが、東へ向かう道は古い中山道と言われ50mほ
ど行くと、板状の石に地蔵菩薩が刻まれているものが2つある。
(今回見られなかったので、次回のお楽しみ)
その道は100m先で崩れていて通行不能という。

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刎石坂

古い中山道との分岐から北へ急な下り坂、刎石坂が始まる。

十返舎一九が書いた。
  
  たび人の 身を粉にはたく なんじょみち 石のうすいの峠なりとて

芭蕉句碑 
江戸時代はここに芭蕉句碑があったが、現在は坂本宿の上木戸のところへ移動。

石仏群

大日尊の碑(坂本駅世話人)・南無阿弥陀仏の碑(文政3年1820)・馬頭観世
音の碑(文政8年1825)がある。

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柱状節理

刎石山を形成している岩層が露出。
火成岩が冷却・固結する時亀裂を生じ、自然に四角または六角の柱状に割れた。

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堂峰番所

元和9年(1623)設置(安中志)。
碓氷関所を通らないで碓氷関所御囲いの山を越えようとする人を見張る。

道端に穴のあいた大きな石がある。これは木戸の礎石で、南側に堂峰番所の堂
附同心の屋敷が2軒あった。

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愛宕山城

堂峰番所のあるところは、中世の愛宕山城の西端にあたり、東西280m、南
北150mの直角三角形をしていた。その主郭は長方形で、空堀で囲まれている。
碓氷峠の出口を押さえる位置におかれていた。

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木立の間から国道18号線の「C-9」地点が見えました。ゴールです。

中山道は国道18号線を横切り、国道南の急な坂を下り、坂本浄水場の西側を
通って、再び国道18号線に合流する。

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玉屋ドライブイン

国道18号線を道なりに東へ200m下ると、左手にある。

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国道18号線を渡りやや右に坂を降りると、そこは「アプトの道」のトンネル。
「峠の湯」で汗を流し、疲れた足も元気になりました。もう一度歩きたい。



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