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染太郎

Author:染太郎

職業:Confiseur    
   ジャム職人

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ジオターゲティング

足跡を一つ二つ・・・歩いて行くと残ります・・・
目に止めた景色・古道散歩・昔ばなし・草木染め・などつれづれに綴ります.
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街中に文化祭がやってくる
29日夕食にと、連れられて行った先で、思わぬジャズのシャワーを全身に。

「矢野忠と青空ロマンス楽団」という、3人バンドのスウィングに食欲
も盛り上がって満腹に。

音楽は、人間にとって食事と同じ。DNAも大喜び。

投げ銭の作法でゲットしたCD「Shout Bsby Shout vol.4」
(コンピレーションアルバム)

写真を撮ろうとしたら、デジカメのメモリーが入ってなくて、残念!

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私の青空,Give me the Smile, 恋のバカンス,IGot Lhythm,
サニーサイト,Saint louis Blues 他 ライブはいいですね。

10月は、文化・芸術のお祭がたくさん。

阿佐ヶ谷ジャズストリート http://www.asagayajazzst.com/

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30日中野に買い物に行くと、野外演奏会が。
(中野区もみじ山文化センター)

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1団体約10分で、1日6グループが演奏して、しかも無料。

音楽の好きな方々、多いですね。

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省エネ大作戦
ゴーヤ?と思って目線を上に。

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なんと!最上階まで伸びた「へちま」の大カーテン。

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しかも!茶色になって「完熟?へちま」が、たわわに。

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今夏の電力不足を救ったのは、予想の間違いではなく、一人一人の努力
でしょう。

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努力に、感謝を込めた拍手を贈ります。

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チョコの散歩道
ガマズミが色づいてきました。

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落日は、日ごとに早くなって。山が燃える。

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大人だけの遊園地
30年後?の華蔵寺公園にやってきました。(注:心象風景です)

公園にいるのは、童心に帰った「おとな」だけです。

足元に気を付けながら、自然に前の人の後についていきます。

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季節を忘れた花のように・・・

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北関東一という観覧車・・・見上げると背骨がシャンとして、若返ります。

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静寂の中に、時間まで止まってます。

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カメラもぶれません。(種明かししますと、実は止まっています)

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黄色いディスプレー・・・ジェットコースターといいます。

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飛ば(べ)ない白鳥。何を考えているのでしょう「?」

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雲にかすむ赤城山。明日の日本を見てきた本日の研修でした。

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丘林山浄土院華蔵寺
    伊勢崎市華蔵寺町6-1

  貞観14年(872)智證大師円珍上人(比叡山第5世天台座主) 開山
  文治・建久年間(1185~1199)栄朝禅師 中興





日没
もう日暮れ? 高い峰だから、日没時間も早く?

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右に浅間山

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松岸寺の五輪塔
松岸寺

細い参道を北(碓氷川方向)へ入ると、山門が見える。

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山門の手前に十字路があり、多数の庚申塔も。古道?

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神仏習合の名残の石塔?

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本堂は開いていました。

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松岸寺の五輪塔  (案内パネルより)

言い伝えによると鎌倉時代前期の武将、佐々木盛綱(もりつな)夫妻の墓とさ
れているが、活躍した時代からは100年ほど時期がずれている。

現在の場所に移る前は、同じ墓地内の若干離れた墳丘上にあり、その墳丘上か
らは立派な鐙(あぶみ)が出土していることから盛綱本人でないにせよ有力な
武士の墓であると考えられる。

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五輪塔は、上部から順に空・風・火・水・地の各輪からなる供養塔・墓塔です。

この五輪塔は高さ約150㎝で、正応6年(1293)銘があり、完全な形で残って
いる五輪塔としては県内最古のもので、県指定重要部文化財です(右側)。

左側も同年の銘があるが、空風輪を失っている。材質は砂岩製です。

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佐々木盛綱  仁平元年~没年不詳(1151~ ? )

源頼朝(9/24)(9/25)(1147~1199)に伊豆の流人時代から仕え、
その挙兵に従い、治承・寿永の乱で活躍。
没年不詳ですが、岡山県倉敷市に盛綱のものと伝わる墓があるという。

頼朝が没した(建久10年1月13日)後の建久10年(1199)、3月22日
に出家し西念と称する。

建仁元年(1201)4月3日、上野国磯部郷に在り、城資盛・坂額御前の反乱の
制圧を命ぜられる。
命令は、4月5日に西念の下に届き、越後国鳥坂城に構える城資盛を激戦の末
に破った。(建仁の乱)

NHK大河ドラマ「平清盛」で進行しているス歴史ストーリーが、少し身近に?

2日で鎌倉から命令の文が届いたという、鎌倉街道のルートはどこに?


松岸寺(しょうがんじ)

  安中市磯部4-4-27
  Tel:027-385-7075





高白(こうはく)
高白の碑

高白は、源頼朝の愛犬の名前です。

もとは1坪ぐらいの方形で、ほんの少し高くなっていた言われているが・・・。
高さ70㎝ほどの自然石に種子6字を刻んでいる。

この地を「高白の墓」のある所と呼んでいたが、いつしかなまって「高墓」と
呼ばれるようになったという。
今ある碑は、江戸時代に建て変えたものだという。(松井田町の文化財より)

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中山道臼井小学校から北へ、御所平信号とJR信越線「高墓踏切」を渡り、右
碓氷神社)に行くと稲荷谷戸(いなりがいと)。

ここは昔、立派な稲荷の社があったといいます。

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左に坂を登ると、高速道路「高墓橋」の上に。

西には浅間山がそびえ、手前に碓氷峠がある。

高速道路建設前に、この付近を発掘調査した時、「使途不明の溝発見」と報道さ
れた。
やや南斜面の梅畑に、断面が半円形の溝が1本、東西に出ていた。歩いた形跡
がないので使途不明とされた?。

最近人見地区などから「東山道遺構」が発掘された。現地見学に行くと、梅林
で見た溝が両側にある道が何キロも続いていた。

長い年数の記憶がつながった。ここは東山道(古代の高速道路)だったのだ。
碓氷峠・高墓・人見等は地図上で一直線だった。

今では同じ場所を車が高速で走っている。

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高墓の集落に入り、お堂?のある角を右折。古い庚申塔もある。

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集落をすぎて林道が大きくカーブする先に、小さい白い杭が。

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探していた、高白の墓を見つけました。

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源頼朝が、鎌倉幕府を開いた8年後(1193年)、浅間山麓での狩の帰り、陣
段操で休んでいた所、稲荷谷戸(いなりがいと)に猪がでたと注進があった。

頼朝は高白を連れ狩に出たが、猪を発見したものの雲内で、見失ってしまった。

3日後、再び裏妙義で狩をしたところ、高白は凶暴な猿との戦いで命を落とした。

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愛犬の死を悲しんだ頼朝は裏妙義が良く見えるこの地を選び葬った。

高白の墓があるため、高墓と言われるようになったと言う。

高白の碑は、村人によって死後559年の後、宝暦2年(1752)に建てられた。

梵字は、あーんく・あ・び・ら・うん・けん と記してある。

(説明パネルより)

狩をしたという、裏妙義・中木方面が目の前に見える。

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頼朝は、狩で良い成績の家来に松井田内の土地を与えたという。

源(木曽)義仲が、頼朝に長男を人質に差し出し、数百騎をつれて碓氷から信
濃に撤退した。その後京に上った。

頼朝が与えた土地は、義仲の勢力下だった土地と思えるが、どこであろうか?


高白の碑
(ご注意:足元が悪くまた、個人の梅林内のようです)




碓氷神社
~耳をすませば、思い出す~

松井田町五料の臼井小学校の前は、旧中山道。

ここに来ると思い出すのが、自転車の荷台に飴と紙芝居を積んだ、紙芝居屋。
校門の前なので子供が集まる。飴に気を取られ?題名や内容は覚えていない。

昔の校門の前から、この細い道を北に行くと、突きあたりが碓氷神社。
神社の祭礼の日には、この道に屋台がでて、狭い路がさらに狭くぶつかるよう。
叔父・叔母の家がここにあったので、お小遣いをもらって、繰り出した。

夜は蒸気機関車の音に布団を飛び出し、ライトと汽笛を浴びて興奮。
そんな思い出の家も、国道の拡幅で山の中腹へ移転。
古道も短く、耳をすましても人声は聞こえなくなった。

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国道18号信号「御所平」を渡り、信越線踏切を横切ると、碓氷神社。

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由緒(説明パネルより)

創立年代不詳ですが、碓氷峠熊野神社より分霊し、碓氷郷の鎮守産土神として
祀られる。
慶安年間(1648~52)社殿を改築し、碓氷峠熊野神社の里宮として碓氷神社と
呼ぶ。

明治42年3月菅原神社(中木)、波古曽神社(小竹)・諏訪神社(平)・八
幡宮(横川)・その他五料の郷にある諸社等々を合併合祀し今日に至る。

大正3年村社に指定、その後神社制度の改革等により現在宗教法人碓氷神社となる。

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鳥居の脇には、横たわる道しるべ。どこにあった?

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燈籠は分解?

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伝説1

建久年間(1190~99年)源頼朝は、信州浅間の巻狩りの際当神社に祈願し、
境内に御所を置いた。
以来この地を「御所平」と呼ぶようになった。

頼朝は何人で来たのだろう?
境内は御所を置くには狭いようだが、当時の境内はどこまでだったのだろうか。

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伝説2

正應年間(1288~93年)鎌倉北条氏は、この地が信州から関東への入口なので、
碓氷郷総鎮守として崇敬した。

光明天皇(1337年)は碓氷郷一宮と定め、崇敬・祈願された。

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自性寺焼
自性寺焼の青木昇先生の門下生の方々の展覧会

第31回 陶明会陶芸展に行って来ました。

19日からで今日は最終日、急いで行くと受付にはお客様の列が。
入口の左右も、花瓶と花で飾られてます。

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撮影の許可を得て、展覧会の作品の一部をご紹介します。

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ビードロ釉(ゆう)という釉薬を使用した作品。

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いいですね、ランプシェードの暖かい灯り。ほかにも何点かありました。

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温泉地がひらめきました。

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福を呼ぶ人気者

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青木昇 先生

来客の方の質問に、丁寧に答えていらっしゃいました。

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盆栽までできあがり?

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孫が喜びそう。

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小作品にもニッコリ。

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自分好みの楽しさが伝わります。

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「里秋窯陶芸館」では、青木先生の作品の展示・販売をおこなっています。

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長年の研究により、「自性寺焼」を復活されました。

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学習の森での「陶芸教室」を懐かしく思い出し、創造する楽しさにふれました。

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自性寺焼 里秋窯 ( http://www002.upp.so-net.ne.jp/jisyojiyaki/ )
  
  安中市下秋間4670-1
  Tel:027-382-5560





龍昌寺①
龍昌寺

明治7年(1874)11月26日、新島襄は脱国以来10年経過した日本に、
帰国を果した。

28日朝8時頃、両親に帰国の挨拶をしてから、宣教師としての任地の
神戸に発つまでの間に、ここ龍昌寺(上野尻学校)で初の説教をおこな
い、キリスト教の布教を始めた。

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和合の鐘

並んでいる梵鐘が108。開運小槌で「過去・現在・未来」と3回撞けば、
その澄んだ音色が重なり合い、人々の心を洗い清めるように響くという。

自動車に乗った観音様や、世界のミニカーを集めて交通安全を祈願した博物館
もある。

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山田三川

三川(さんせん)は、伊勢国津藩生まれで松前藩に仕えていたが、故あって松
前藩を去ることとなり、その後水戸藩主徳川斉昭(なりあき)侯の推挙により
安中藩主板倉勝明(かつあきら)に仕えた。

小藩の安中藩では松前藩時代の3分の1の50石という待遇ではあったが、勝
明という名君を得たことに喜んで仕えた。

安政2年(1852)には安中郷学校を設立し、同3年には郡奉行も勤めた。

安中藩士向けの学校(造士館)では経学、詩文及び吏事、経済学の講義をおこ
なった。
その後勝殷(かつまさ)にも仕えたが文久2年(1862)、59歳で没した。

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松前藩の奉行だった事もあり、当時外国に開かれていた港である函館のことを
新島襄に教えたのは三川だったといわれている。

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洞谷山角峯院龍昌寺 安中市安中2-7-19 Tel:027-381-1348

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