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足跡を一つ二つ・・・歩いて行くと残ります・・・
目に止めた景色・古道散歩・昔ばなし・草木染め・などつれづれに綴ります.
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無言館
無言館、教科書にも取り上げられているという美術館。

山頂付近にあるというので、「自問坂」とある細い坂を登る。

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展望台方向には紅葉のみどころが? 次回のお楽しみに。

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戦没画学生慰霊美術館 無言館

埋もれてしまうところだった画学生の遺作を全国から収集したという。

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一人ひとりの短い一生を語る絵画があるという。

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戦没者の魂の中に入るような狭い入口。

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彼らは何を語ってくれるのか?

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子供達の団体が訪れていた。何を感じ持ち帰っただろう?

ノートを片手にガラスケースの中の、戦時のハガキや写真、説明文に見入っていた。

遺族の方々が大切に守りぬいた品々や、たった一つの形見の品がケースの中で、
永遠の安住の地を得て、来館者に訴え続けていた。

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別館に入る。

戦争の悲惨さと非人間性。
だが本当に非人間的なのか?
誰かが「人間は、人を殺す動物である」とも言った。
動物の頂点に立つ人間の宿命か、それとも数百万年の人間の進化の間に身に付
けた本性なのか?

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犠牲者の悲しみと、後世に伝える無言の魂の叫び。

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画学生が命とした筆、戦乱の中でも書き続けた。

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非戦の庭

武器を手にすると、他の人間の頂点に立ちたいという誘惑にかられる。
世界に戦の絶える時代は来るのか?
戦争でもくろむ人命の略奪や支配化・富の独占化などを、いかに英知で解決す
る方法を見つけ出すか。
これからの人類にとって探し出さなければならない最大の課題だろう。

ふと、「人間は、考える葦である」(パスカル)という言葉を思い出した。
彼は「思考のススメ」を説いて、空間や時間を除いて、自己の思考の中に昇華
していった。

「意のままにならない空間と時間」を、各個々人の「平和への希求」で満たす
とすれば、平和実現?
パスカルの「限界」を破るか?

自問しながら坂を下る。

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当館の庭には、パレスチナから運ばれたオリーブの苗100本と、沖縄・摩文仁
(まぶに)の丘より採掘された約200トンの石が敷かれています。(プレートより)

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下界は平和な秋晴れ。

多数の人は平和を願っているのに、現実はご承知のありさま。
不断の努力・叫びなくして平和な世界の到来はないだろう。

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無言館
  長野県上田市古安曽3462
  Tel:0268-37-1650


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諏訪大社下社秋宮
中山道(信濃)を往く(10/26終)-4-

秋宮も紅葉の秋を迎えたようです。

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菊は秋の象徴。

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かじの紋

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御柱、大きいので画面に入りません。

マイク姿のガイドの方の案内で一巡り。お上手です。

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かじの木

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さざれ石、これが?

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ここにもかじの木

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気になりますが、後日のお楽しみ。

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諏訪湖博物館の分館「歴史民俗資料館」

下ノ諏訪宿

下ノ諏訪宿は、中山道と甲州道中の接点(追分)にあり、交通・軍事上重要な
地でした。

はじめは、諏訪神社下社秋宮の門前町として、また温泉町として発達した集落で、
「湯之町」の名は室町時代中期ごろから史料のなかにみられます。
 
江戸時代になると、街道の整備とともに町並みも整い、中山道六十九宿の一つと
してたいへん賑わいました。

町並みは、長さ4町50間(約530m)、甲州道中の分を合わせると8町49
間(約960m)あり、立町(たつまち)・横町を中心に構成され、綿之湯あた
りがにぎわい、そこに問屋場がおかれ、その奥に本陣がありました。

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本陣は、最初小口弥右衛門(おぐちやえもん)が勤めていましたが、2代目の
時に不都合が有り処罰され、その後を岩波太左衛門(たざえもん)が引き継ぎ
ました。

問屋場は本陣が兼ねていました。
本陣は現在も庭と建物の一部が残されています。
本陣の庭園は中山道随一といわれるほどのものでした。

宿場の主な役割は、幕府など公用の物資輸送と宿泊業務で、これにあたったのは
本陣・問屋場・脇本陣でした。
ほかに一般の旅籠・茶屋などがありました。

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兜にかじの紋が。

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あちこちで温泉水が、さわると本物。入りたいですが、次回のお楽しみに。

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諏訪大社下社秋宮



和田宿
中山道(信濃)を往く -3-

和田宿

文久元年(1861)3月、宿場の大半を火災で焼失し、11月の皇女和宮降嫁の
宿泊地とされていた和田宿では、この使命を全うすべく幕府の拝借金を得て、
宿場の復興が行われた。

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本陣 鏑木門

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明治維新後は、役場・農協事務所として昭和59年4月まで使用されていた。
昭和61年より5年の歳月をかけ解体修理が行われ、往時の姿に復元された。

本陣建物は大名などの宿泊に当てられる「座敷棟」と、本陣の所有者が生活す
る「居室棟」に別れており、この建物は「居室棟」にあたる。 
   (パンフレットより)

屋根は石で押さえて、地震にも強いとか。中山道に面しては2階の開口部はない。

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御入門 道路拡幅により現在地に復元。

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皇女和宮が降嫁の際宿泊した、「座敷棟」は復元されなかった。
道路にかかる部分あたりに建っていた。。

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手割の栗板を並べて、石で押さえてある板葺屋根。

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籠(かご)が4台、比較するとおもしろい。

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明和2年(1765)以降、明治維新まで定名主を務めた羽田家の役宅「羽田野」。

6文銭が彫ってあるので、かつて真田氏の給人という。

現在、「和田宿農家レストランかあちゃん家」 後ほど昼食はここで。

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旅籠(はたご) 大黒屋

6間x7間の出桁造りの大型の建物で、安政年間以降昭和初年まで穀物商を営
んだ。
戦後、奥座敷の床の間と勝手奥の座敷壁面の帳箪笥等は採光の為に取り払われ、
改造が加えられている。

また、明治時代に道路が掘り下げられたとき、町並みより奥へ移動したという。

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旅籠 かわちや  歴史の道資料館

京都方面は漢字、江戸方面はひらがなで屋号を書き分けた。
旅籠(はたご)が、肩に振り分けてもつ弁当箱と、知りました。

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下の問屋 

中山道当時は坂道だったが、道路を掘り下げたため、石段を登るようになった。

かわちや脇を流れる追川を渡るのに、急な坂で、馬がたいそう難儀したそうです。

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では時間となったので、お昼をいただきましょう。
なつかしいくぐり戸、我が家の昔の記憶がよみがえりました。
そば打ちやおやきづくりなども行えるとパンフレットにあります。

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お蕎麦とおまんじゅう1個付きでした。江戸時代の旅人になりました。

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本陣
  長野県小県郡長和町和田2854-1
  Tel:0268-88-2348



下増田まつり
下増田まつり (28日)

小雨がぱらつく朝、下増田まつりの子供みこし出発のお祓い・祈願がおこなわ
れました。

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子供達は、昇殿して玉ぐし奉納、宮司さんが御輿・村人・四方をお祓い。

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まつりお囃子1曲奉納して、お清め、境内でワッショイ・ワッショイ出陣式。

さあ出発。

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太鼓と鐘の音色が、とんとん・カンカン、村里を巡回して行く道筋から谷津に
響き渡ります。

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今朝は秋風が吹き、青空。

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満月? 今日は旧暦の9月15日でした。

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立岩和紙
中山道(信濃)を往く -2-

立岩(たていわ)和紙の技術が保存されている、「和紙の里ふるさとセンター」

300年の歴史を持つ、楮(こうぞ)和紙で主に障子紙に利用された。
最盛期には50件もの紙漉き農家があったという。

手打ちそばの看板が目に入るが、昼食タイムはまだしばらく先に。

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小学生の団体の生徒達が、卒業証書の手作り体験をしていました。

6年生の真剣な面持ちが伝わってきました。

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皮をむいたコウゾの木。(九十九では、カズの木と呼んでいました)
子供の頃、チャンバラをしながら追いかけたり、追いかけられたり夕暮れまで
遊びました。

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昔こんな釜で煮てました。

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機械は止まっていましたが、たたくようです。

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繊維をドロドロに?

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和紙といえばこのシーン。

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ふと天井を見上げて、発見! 究極のエコエネルギー、竹バネ?

すのこの竹ヒゴの細さも芸術品。

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乗せていきます。綺麗な白です。

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圧縮すると10分の1になります。

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売店にいろんな製品が。

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柿の豊作の秋。長門町と和田村が合併して長和町となっている。

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信州立岩和紙の里ふるさとセンター
  長野県小県郡長和町古町22-1
  Tel:0268-68-3874


長命酒
九十九歴史講座 現地散策レポート⑨

板倉勝明公が安中志下巻の中で、「酒を醸(かも)する者あり、頗(すこぶ)
る美酒なり、我曾祖父銘をしか授けたり、醸すもの新兵衛といえり」と記した。
 (九十九史考より)

安中志を編纂した板倉勝明の曾祖父は、第12代安中藩主板倉勝暁(かつとし)
で、在位は安永9年~寛政4年(1780~1792)の12年間です。

世の名だたる酒をたしなんだであろうお殿様をして、「頗る美酒なり」と言わ
しめ、戴いた銘は「長命酒」。

一杯呑むほどに、寿命が延びる程の美酒に酔いしれてみたいが、今はない。

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道路に面していたという、石像。

松井田からの榛名道が国衙から下増田に入る地点にあったのが、上原酒造。

国衙には通称「上の酒屋」といわれる「神戸酒造」と、「下の酒屋」こと「上
原酒造」があった。

昭和6年調査した文書によると、上原新兵衛が明和6年(1769)安中藩主板倉
肥前守勝暁に、醸造した酒を献上したところ、公はその美酒なることを賞でら
れて、「長命酒」という銘を授けた記されている。  (銘酒桝花記より)

明和の頃の新兵衛の醸造酒は60石だったが、明治初期頃には醸造を止めたよ
うです。

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酒造用井戸があったところ。

直径は大きく、数歩歩かないと向かいに行けなかったという。
近所の井戸が枯れても、水をたたえていたと言うから、深かったのでしょう。

ご主人は、木が大きく育ちサツキなども咲いていたので井戸は埋めてあると
思っていたところ、大雨の日一気に沈んだという。
1ヶ月半かかり埋めたということです。奥さんもビックリ。

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酒造用の建物だった?ガラスは、波があるので古そうです。

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今が盛りの秋名菊

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稲荷の側面にOO神とある。

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ツワブキも満開

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十三夜を手近な長命酒で、観月の宴といきますか。

笠取峠の松並木
中山道(信濃)を往く -1-

笠取峠の松並木

芦田宿と長久保宿の間、約1.5町(1.6km)に現在68本の松並木が続く。

言い伝えでは慶長7年頃、公儀より赤松苗753本を小諸藩に下付され、近隣
の村むらへ人足が割り当てられ、小苗を植え付けたとされ、幕末まで手入れ・
補植等管理されていた。

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この道を登ると笠取峠(標高887m)、 当時は2軒の立場茶屋が置かれ、
中山道を往来する旅人や、人夫の休憩所になっていたようです。

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従是東小諸領

この石標は、小諸藩が文化3年(1806)に領分境の東西へ建立したうち西
側のものです。これを境に西は幕府領です。

藩領の西端、中山道笠取峠(ここより西1.7km)にあったものの復刻です。

藩領東端の石標は、「従是西小諸領」と刻まれ、中山道小田井宿と追分宿の藩医との
間、追分原(御代田町)にあった、と説明板にあります。

石標は、今もあるのでしょうか?
小諸藩の藩領の広さを再認識しました。

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以前は、「狩取峠」や「狩鳥峠」とも記され、「笠取」の由来として、「風の
強い所で、笠を飛ばされてしまう」「ここから見える浅間山のみごとな眺望に、
旅人がみな笠をとって仰ぎ見た」との説が伝えられているということです。

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隣接の「松並木公園」は、色どりの豊かな季節の到来。

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道は歩く楽しさを教えてくれます。

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トチの木

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バスは、運転の心配がないので自然と・・ウトウト・・ZZZ・・

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笠取峠の松並木



国衙の伝説
九十九歴史講座 現地散策レポート⑧

国衙の一里塚

高梨子の長松寺方面から朝日団地前に来ると、団地入口。この交差点付近に
「国衙の一里塚」があったという。

九十九史考には、国衙字松原から呼坂にかかる畑中に、周囲約2mばかりで根
元がトンネルになっている1本の老榎(えのき)がある。
これが昔の東山道一里塚です。また国衙と高梨子の境木も兼ねた。とあります。

東山道に中山道のような一里塚があったかどうか?
幹周り2mの榎の大木といえば、熊野神社の榎(8/22)を思い出す。
古墳とか、浅間焼けの軽石の山とも言われたが、朝日団地建設前の遺跡調査
では、なにも出なかったのでしょうか?

地図によると、国衙と高梨子の境は、撮影カメラの立ち位置くらいで近いようです。

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朝日団地入口から入り下った所の駐車場隣りに、朝日神社跡がある。

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自性寺

朝日神社の北側に、自性寺があったという。

山号 朝日山 
宗旨 真言宗
本尊 十一面観世音菩薩
本寺 松井田不動寺
開基 寛永元年
開山 正源法師

その後檀徒が少なく、無住になったりし、明治11年戸長役場に使用されたり、
明治40年には、増田の満昌寺に合併された。(九十九史考より)

その時の墓石も残っているという。(植栽に囲まれている)

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朝日神社跡を、後側(西)から望む。

右の竹林の下は、九十九川。

昔、朝日の春日神社と対岸の下高梨子の田んぼの真ん中に、春日明神という社
があった。ある嵐の夜、春日明神は忽然と姿を消してしまった。
嵐の翌朝、春日神社の桜の大木(朝日桜)のてっぺんに春日明神の金の御弊が
輝いていた。そこで、朝日神社と仲良く合祀した。(九十九史考より)

要約すると、大嵐で九十九川の流路が代わり地続きとなると共に、大破したの
で合祀したようです。
地図を見ると、堂崖と呼ばれると言う崖下は、高梨子の土地になっています。

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朝日神社跡



浅間山
初冠雪・浅間山

初雪、たしかに冠(かんむり)のようです。
昨日低気圧が通過し、気温が低下したからでしょうか?
ラジオで、平年より4日、昨年より23日早いとのこと。

昨日は、「霜降」とカレンダーにあります。季節は確実に時を刻んでいるようです。

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稜線がはっきりしないのは、風で粉雪が舞いあがっているのでしょうか?

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雲の流れも早いです。

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妙義山の紅葉も間近。

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先日19日の九十九歴史講座・現地散策で歩いたお花畑に寄り道(10/22)。

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手造りの「おもてなし」がなにより。

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先日のつぼみが随分開き、黄色が遠くからでも目立ちます。
これからさらに咲きそろいそうです。

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成就院(小日向)
龍王山榮福寺平等坊成就院 (10/15)

日枝神社に登る石段の前は、風格のある石垣が東方向に続き、成就院表門(山門)
前と長屋門(通用門)前に続いている。

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開基:慶秀 
開山:慶秀  永徳(北朝1381~1383)年中
本寺:(松井田)不動寺
日枝神社の別当寺。ご朱印31石余。

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慶秀が7寺建立の志願を起こした。

その7ヶ時とは成就院の歴史(茂木弘道著)によると、北野寺(下後閑)・妙
光院(安中)・金剛寺(新堀)・観乗院(阿久津)・医王寺(簗瀬)・宗慶寺
(三ツ寺)・成就院(小日向)と考えられるという。

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7寺の建立を成就したので、本願成就院と号したという。

本堂

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高幢(こうどう)和尚建立の二十日(弘法)大師像。
高幢は米でも野菜でも生のまま食べるので、別称木食(もくじき)上人と言われた。

行人塚(別名入定塚)、悟りきった行人が読経しながら、或いは念仏を唱えな
がら、生き埋めとなった塚が有ると云う。
正慧(しょうけい)和尚で、その塚の上に文化3年(1806)に建てられた。
 (九十九史考より)

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成就院の歴史 茂木弘道著
成就院のみならず、小日向・九十九から日本の歴史につながる時代の迷路を解
いている。
その道筋は、格好の研究指南書となっている。

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成就院
  安中市松井田町小日向1875





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