カレンダー

06 | 2017/07 | 08
- - - - - - 1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30 31 - - - - -

プロフィール

染太郎

Author:染太郎

職業:Confiseur    
   ジャム職人

リンク

このブログをリンクに追加する

天気予報


-天気予報コム- -FC2-

訪問者数

最新記事

検索フォーム

月別アーカイブ

カテゴリ

RSSリンクの表示

最新コメント

最新トラックバック

QRコード

QR

フリーエリア


ジオターゲティング

足跡を一つ二つ・・・歩いて行くと残ります・・・
目に止めた景色・古道散歩・昔ばなし・草木染め・などつれづれに綴ります.
スポンサーサイト
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

山名八幡宮
ふるさと歴史研究現地研修会②  (9/21)

山名八幡宮
随身門には左右に馬像が、帰りの方向からは左大伸、右大神が。

DSC05001b.jpg

新田氏の祖の源義重は、その子義範(山名氏の祖)を多胡郡(八幡荘)山
名郷に配し、碓氷郡里見郷に義俊(里見氏の祖)を配した。

源頼朝の挙兵(治承4(1180)年・8月)の際に、義重自らは命に従わず
山名城、里見城、の中間の茶臼山城(寺尾)に居城し自立の動きをした為
、鎌倉幕府成立後に冷遇された。

(新田荘から烏川右岸までという広大な所領が背景か?)
源義仲の父義賢は「多胡館」から「大蔵館」へ転居した後、討たれた為
勢力が弱まった地域に進入したか?。

上野国の入口を押さえられた源頼朝は、源義仲を上野国西部から退ける
と共に、「多胡館」に入っていた多胡氏の支配地から北上し板鼻に抜け
る道を「鎌倉道」として使い新田義重の背後を固めたか?
京で職を得ていたがいち早く頼朝に従った源義成(義俊の子)や、源義範
の働きも大きいものがあったのだろう。
その後里見氏の出城が板鼻に置かれ、板鼻は鎌倉前期の建久4年(1193)
から嘉吉元年(1443)まで約250年間新田・里見氏領だったと推定される。
この板鼻城(鷹の巣城)は古城団地南部に位置する。

源義範は山名八幡宮を創建(1175~1177)し、以来830年という。
治承8年(1184)2月の源義経率いる平氏追討軍に参加。
文治5年(1189)7月の奥州合戦に従軍。

DSC05011b_20131001213143122.jpg

彫り物の種類・出来栄えも見どころ。

DSC05026b_20131001213835e7a.jpg

社殿の真後には、獅子頭。

DSC05023b_2013100121314871c.jpg

DSC05027b_20131001213837b68.jpg

子孫の山名宗全(1404~1473)は、応仁の乱(1467)の西軍の将。

DSC05005b_20131001213146bda.jpg

DSC05004b_20131001213150948.jpg

後醍醐天皇の孫君長親王が当社で安産の祈願をし、無事良王君が生まれ
健やかに成長されたことから、安産と子育ての御利益があるという。

DSC05015b_20131001213832c63.jpg

参道は線路の下に。

DSC05031b_2013100121383956c.jpg

見ている前で電車が通。

DSC05035b_20131001214054e59.jpg

駐車場にある大石は、「たちわりの石」

DSC05032b_20131001214056e8e.jpg

DSC05033b_2013100121405858c.jpg

山名八幡宮 高崎市山名町1581 Tel:027(346)1736
関連記事
スポンサーサイト

コメント

コメントの投稿














管理者にだけ表示を許可する


トラックバック
トラックバック URL
http://bberry1.blog.fc2.com/tb.php/458-c293cbaf
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)

    上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。